巻1‐(23)織田信長の岩倉攻め(浮野合戦-1)

シリーズ・・・その26(17.02.05掲載)

信長はなぜ同族の岩倉城を攻めたか

斉藤道三が信長と対面した聖徳寺の跡地=尾西市富田大堀で
一宮市千秋町浮野海道に浮野古戦場跡の碑が存在する。約450年前、清須城織田信長は叔父で岩倉城織田信安を攻撃するため、浮野原へ陣を進めた。死闘二刻、首級九百余を討ち取った。これを浮野合戦と呼び、首級を埋めた地(通称浮ぐい首塚)に昭和39年春、一宮市が史碑を建て、毎年8月12日に合戦で命を落した武将らを慰霊する供養祭が営まれている。美濃斉藤道三の娘帰蝶(濃姫)は天文17(1548)年、信長の傅役平手政秀の斡旋により信長14歳、濃姫13歳で婚約が成立した。美濃蝮の道三と尾張織田統領信秀(信長の父)は戦では両者譲れず。政略結婚で話が進み美濃、尾張に明るい萌しを感じた。だが翌年、信秀は城中で不慮の最期をとげた。遺言により信長に嗣子(後継)を託した。平手政秀は信長を戒め自害す。同22年4月18日、斉藤道三は尾張の「うつけもの」の正体を見極めるべく富田の聖徳寺=尾西市富田、同歴史民俗資料館下流1キロ=で信長と対面した=写真。
その2年後、弘治2(1556)年3月、濃姫は信長に嫁いだ。道三は尾張の国盗りを感じていた。しかし、嫡男(長男)斉藤善龍は意を異にしていた。道三の実子龍重、龍定二人を殺し、道三打倒の旗を打ちたてる。同翌月24日、道三は長良川河畔で嫡男義龍と戦い、享年63歳で討ち死に。 道三は美濃一国を信長に譲ると遺言を残した。

斉藤道三の遺言状 道三花押(岡本良一氏蔵)
●斉藤道三の遺言状
道三は討ち死にの前日、11歳の末子勘九郎に遺言状を託した。【要旨】原文 『熊に申し送る意趣は美濃国の地、ついに織田上総介(信長)の存分にまかすべしきの条、譲り状、信長に対し贈り遺わし候。(中略)既に明日一戦に向かい成仏、疑いあるべからず候。げにや捨てだに此の世のほかは、なきものを、いずくか、つゆの住家なりけん』信長は道三の救護に出陣するが間に合わず。蝮の道三、織田統領信秀、天下を盗る思惑は全く崩れ両者は亡くなる。美濃、尾張の関係は急きょ険悪となる。同年9月、斉藤義龍は関城主永井隼人に命じて父道三の妻(お見ノ方、濃姫母)と明智光秀の生家、美濃明智長山城=可児市=を攻め落城させる。信長「うつけもの」の本性をあらわし、尾張統一の始まりである。
年22歳。同年那古野城の将林秀貞等、信長の弟信行を擁立しようとしたが、かなわず、ついに信長に降る。斉藤義龍は明智攻めに乗じ、信長の庶兄信広と謀り、清洲城攻略を計画するが失敗した。翌弘治3年11月、信行は同族岩倉織田信安と謀り再び背いた。信長は病と偽り、清洲城に誘い信行を誘殺する。上の郡犬山城織田信清は信長は今だ若年に候この期に付け入り、たくらんだ。先代信秀の格別の庇護地小坂源九郎政吉が討ち死にしていた。御台地である春日井郡柏井、篠木、三郷の横領を企てた。岩倉織田信安も同心し上郡の者心一つにし、信長如き恐れん、信秀恩顧の者どもも信長へ忠節の者少なく。柏井三郷の侍衆も同心であれば御台地三千貫文を分け与えようと、小久地目代中島左衛門尉、篠木、大留の各村を味方に引き入れた。しかし柏井三郷小坂氏は前野宗吉(小坂雄吉)の母の生家で柏井に在城していた。舎弟前小、峰小、義盟を結び三郷内に侠道尊ぶ者一千余あり、警護仕ると宗吉に伝えた。犬山勢一千有余、春日井原へ乱入、柏井原へ差し出や、山の手数十ケ村一揆衆松明、篝火天を焦がし、幾百のほら貝一斉に鳴り渡った。犬山勢は肝を冷やし、一戦も交えず一夜のうちに引き退いた。犬山城織田信清は信秀亡き後、柏井三千貫文掠め取らんとするも思わぬ不覚となった。信長はここにきて岩倉織田信安を攻める決意を固める。
●信長は小折城の縁家生駒氏を根拠として岩倉、小口、犬山の分断を謀り、岩倉を攻める
永禄元(1558)年、濃姫の婚礼の附武将、堀田道空邸(津島)で信長は踊り張行を催し、信長は天女、前野但馬(前小)は弁慶に扮したと『信長公記』に記録されている。この踊りは大役を果たした道空へのお礼興業であったと言われ、生駒屋敷では嫡子誕生で、無礼講の踊り張行を催したと『武功夜話』は伝えている。そのころ信長は小折城生駒家宗の娘吉乃の屋敷で嫡子希妙丸(信忠)が弘治3年に、次いで茶筅丸(信雄)が永禄元年に誕生、翌年五徳(徳姫)と続いて三子が生まれた。信長は尾張北部の小折生駒屋敷で岩倉、小口、犬山の分断を謀り、織田家臣団も信長の時代を感じていた。
次回は3月5日掲載。「尾張浮野原合戦」。

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