◎武功夜話物語を始めるにあたって


シリーズ・・・その1(15.01.01掲載)

焼兜
織田信長が使用したと伝えられる「焼兜」(総見院蔵)
総見院

現在の総見院

系図150101
21世紀、IT(情報技術)の時代に、私たちはあえて郷土の貴重な史料「武功夜話」を物語として読もうとしました。一字一句が自分たちの住む町に夢を与えてくれる物語であると思ったからでございます。昭和34年、かつてない大きな伊勢湾台風がこの地方を襲い、江南市の旧家、吉田家の土蔵が壊れ落ち、約四百年間、人知れず埋もれていた記録「武功夜話」が発見されました。それは日本史の定説をぬりかえるがごとき、数多くの戦国文書でしたこの物語が郷土の誇りとして、若者に夢と希望を持って読んでいただけるならば、これほどの喜びはございません。
【 ま え が き 】
「武功夜話」は、戦国時代織田信長・豊臣秀吉が尾張の地をはじめ、活躍して天下人となっていったことを中心にした前野氏(現江南市前野町、27代吉田龍雲氏)の覚え書きです。当家26代吉田武一は役場の助役でした。生前、自宅土蔵に保存されている、先祖から伝わるおびただしい古い文書を整理しようと気にしていましたが、先の戦争中から戦後と続く混乱で、物資や、紙一枚もない時代、整理もできないまま、病に冒されてついに昭和30年秋、心を残しつつ世を去ってしまいました。生前の日々、書斎の囲炉裏を囲み、祖父から聞いた祖先のこと、古文書のこと、聞き伝えなどを、夜や雨、雪の降る日によく昔話のように家族などに話していたそうです。昭和34年、愛知県地方を襲った伊勢湾台風のため、土蔵の壁が崩れ落ちてしまいました土蔵内には、数多くの古文書、古書本が保存されていました。生前、武一が成し遂げようと常々いっていましたが、戦後の世は乱れ厳しく、手を付けることができず年月だけが過ぎていきました。ようやく期を得て、土蔵にこもり調べてみると埃としみにまみれた古文書は何百年も経たものでその内容は、囲炉裏を囲んで武一から聞いた昔話そのものでした。それは「武功夜話」であり、「永禄に州俣城を築いた記録」「前野村の由来記」などでした。さて、「武功夜話」などの古文書は、約400年以前の記録で、当家16代吉田孫四郎かつかねが編さんしたものです。かつかねは、天正14(1586)年に織田信長の次男、信雄の家臣、小坂助六雄善、妻勢以の長男として、今の江南市前野町に誕生しました。幼少の頃は清須(現清洲町)の総見院に人質のように預けられ恵仙と名乗り、同院みん山禅師に師事し厳しく学問を修めました。慶長五(1600)年、15歳の時、関ヶ原の合戦に父雄善とともに東軍、徳川家康の家臣福島正則の家来として初陣をしました。同七年父雄善が、清須城松平忠吉の家臣の時、城中で事件を起こし城を退去し、かつかねも総見院より前野村に帰り、還俗して親の跡を継いで庄屋職となりました。明暦4(1658)年、かつかね七十三歳で死去、号恵仙・昌斉。かつかねが「武功夜話」を編さんする動機は親雄善が隠世の日々、古文書を整理して一書となすため、執筆をしていましたが、関ヶ原戦にうけた槍傷が悪化して他界。その後を受け継ぎ、親の代にて永代続いた前野氏の武門、武功が絶えるのを惜しみ、後世に伝えるために筆を起こしたとかつかねは語っています。
   *   *
「武功夜話を読む会」は、平成14年暮れに総見院を訪れました。門前には二メートル余の御影石粗削りの寺標に時代を感じました。お庫裏さん(寺の奥さん)が忙しくすす払いをしてみえました。「この寺は織田信雄が父信長の菩提寺として創建し、信長の「焼兜」が寄進されています。また、清洲城の北の守りを固めたところと言われております」、と話されました。私たちは「この寺で吉田かつかねという人が学問を修めた末に『武功夜話』という書物を書き残していますので、お参りをさせていただきました」と、あいさつして参詣してきました。


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